人と人との関係

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人と人との関係

僕は大学の卒業論文(1997年)で「コミュニティから見たコーポラティブハウスの考察」というテーマを選びました。コミュニティとは地域社会や共同体という意味で使われる言葉です(定義もいろいろありますが)。コーポラテイブハウスは最近良く雑誌等でも見るようになりましたが、家を建てたい人が集まり、自分たちが望ましいと思う住宅を共同して作る集合住宅のことです。

まだ学生のころですから幼稚な面もありますが、基本的な思いは変わっていないので、今回はその卒業論文の冒頭の部分を抜粋して載せようと思います。少々長くなりますが読んでみてください。

注)文中の「建築の心理学」という本は少し古いもの(1980)ですので、現在の心理学と多少食い違う部分があるかもしれませんがご了承ください。また、《》で囲んだ部分は今回書き加えた部分です。

*****以下、卒論より抜粋*****

今日、社会や価値観が多様化・複雑化し、皆が「自由」や「価値観」を叫ぶようになり、何が正しいか、何をするべきか、というのが捉えにくくなってきている。

バーチャルな世界は急速に拡がり、現実と仮想現実の境界は曖昧になりつつある。そのようななか、犯罪の若齢化や悪質化、援助交際、幼児虐待・・・といったさまざまな問題が表面化してきている。世の中に不安を感じている人は多いのではないだろうか。

その原因の一つに、都市の《《都市に限りませんが》》匿名性や自由を求めすぎるあまり、人間関係を軽視してきたことがあるように思う。「建築の心理学」で、クリフォード・モーラーは人の心の健康は他人との実りある交流によって決まる。又自分のパーソナリティというものは他人と交流し、人々から評価を受けることによって作られるものであり、成長過程においてそれは特に重要である。というようなことを言っている。

現代の都市においては、まさしくそのことが問題ではないだろうか。ここで、建築の立場から豊かな人間関係を作るためにはどのような方法があるか、ということを考えていくと・・・

---中略---

コミュニティについて論じる前に、コミュニケーションの必要性を考えるために、次に掲げるクリフォード・B・モーラーの「建築の心理学」で引用しているレイトン博士とジョージ・ハーマンの文を読んでもらいたい。

『自分自身というものは、人生のなかで遭遇する{重要な役割を持つ他の人々}から受ける評価によってつくりあげられる合成物、すなわち{内的なコミュニティ}である。したがって、各人の対人関係からもたらされる諸々の経験の質と量とにより大きく左右されるものである。

程よい形で人間形成を遂げる機会を持つためには、人は少なくとも、その人生の中でもっとも急激に成長する時期に正常な社会的役割を果たしているいろいろな人と接触しなければならない。このような機会が少ないときには、その人間形成は惨めな結果となってしまうであろう。』Leighton,My Name is Leighton

『精神医学ではすでに解明されていることであるが、グループのメンバーになるということは、人間の支えとなっている。すなわち、それは生活のなかで普通に発生するショックに耐え、子供たちを幸せな、そして、快活な人間に育て上げるのに役立つ事柄である。

もしも、人が参加しているグループから締め出されたり、自分の価値を評価してくれているグループから脱退したりして、しかも自分がその運営に関与できる別のグループへの参加が出来ないならば、人は、その圧迫感のために、正常な考え方、感じ方、ないし行動を取ることが出来なくなるであろう。

・・・このような状況に置かれてしまうと、自らが実在しているという感覚ですら、怪しくなってくる。そして、すぐに強迫観念にとりつかれるようになり、いわれもない不安感や怒りを抱き、遂には、自分自身にも、他人にも、破滅的な結果をもたらすような衝動的行動をとるに至る。

そして、こうした、正常な軌道から外れた人間は家庭内やそれよりも広い人間関係の中で、必然的にそれを誰かに継承していくよう関係を作り出す。

{孤独な人}は、自分の子供たちを対人関係の中で低い能力しかもてない人間に育て上げてしまうし、ひとつの世代がグループ活動に参加していないならば、次の世代もグループメンバーになっていく能力が弱まる。』Homans,Homan Group 《《現代はより複雑になってきているように感じます》》

すなわち、人間のパーソナリティは他人と交流し、人から評価を受けることによって作られるものであり、成長過程においてコミュニケーションは特に重要であり、人の心の健康を保つ上で、グループに参加してそのメンバーと交流関係を持つことは必須の要件である。ということである。

又、コミュニケーション能力の強弱が次の世代にも影響を与えるとすれば、世代を追うごとにコミュニケーション能力の弱い人が増加するのでは、という危機感を覚える。《《いつか述べたいと思いますが、現在コミュニケーション能力の必要性はますます増してきています。》》

他人との実りある交流関係を持つことによって、人は自分自身を見つめる機会や安心感などさまざまなものをえることが出来る。しかし、人との交流関係の中に、不安感やストレスを感じる人もいるだろう。「実りある交流関係」「本当のコミュニケーション」とは何なのだろうか。

---中略---

ここでも、モーラーの「建築の心理学」のなかで使われている、ノーマン・キャメロンの引用文を参考に考えてみたい。『正常な子供や大人と違って、不適当な人間形成過程を経てきた人間は《《正常・不適当という言葉には引っかかりますが》》、他人の信頼を惹きつけておくことが出来ないから、自分の中に恐怖心や不信感が拡がってゆくのを巧く処理できない。そして、自分がこうなったのも全て他人のせいであると考え始めるために、自分に対して想定される他人の反応や態度もしくは思惑のうちで、自分にとって好ましいと思われる人のみを取り上げて、それらの人だけを自ら設定した心の機能上のコミュニティの中に組み入れてゆく。

そのコミュニティの中に組み込まれた人の中には、実在の人もいるが、単に想像の上にだけにしか存在しない人もいるのである。そして、このように設定された他の人々のグループは、自らを説明したいと思うその人の欲求を当座の間は満足させてはくれるが、それらからは何らの信頼感をも得られず、体外的な緊張感だけがいっそう増すばかりとなる。

このようにして設定されたコミュニティは、他の人が加わっている組織体制とは適応できないばかりではなく、実際は、そのような他の人々のコンセンサスと敵対するものになってゆく。すなわち、彼らが自ら作った仮想のコミュニティのメンバーに期待する行動や態度が、現実にそれらのメンバーによって実行され守られることはないからである。けだし、これらのメンバーは、彼に敵対しないというだけで、彼のコミュニティに組み込まれたものであるからである。

このコミュニティは社会的行動における交流関係、相互期待関係及び相互確認関係を、自らの未熟な考えで作り上げた偽装的なコミュニティ (pseudo-community)でしかないのである。』Cameron,”The Paranoid Pseudo-Commyunity”

ここで、キャメロンは不適当な人間形成過程を経てきた人間は、自ら自分に都合のよい仮想のコミュニティを作り上げているとし、それを偽装的なコミュニティと名付けている。そして、それらの人々は、その偽装的なコミュニティの存在を固く信じており、それは、他人からの遮断状態の中に引きこもろうとするのと同じ防御反応のひとつだと述べている。《《大人が「最近の若者は」と思うことの多くは同じように現代社会で生きようとするひとつの防御反応ではないでしょうか。当然、子供にも責任はあるのですが、多くは大人が無意識に作り上げた社会に問題があるように思います。》》

---中略---

・・・他人との実りある交流関係が、人の心にどのように関係しているかは以上に述べたが、そのことは、ひいては社会全体を改善していくということについても重要な問題であるように思う。そして、そのことが私がコミュニティに付いて考えなければならないと考える一番の理由である。

---以後略---

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ここではコミュニケーションについてのみ抜粋しました。コミュニティという概念は僕が生まれたころに一度熱心に論じられていたようですが、現在の状況の中では安易に適用するのは避けるべきだと思います。

簡単なことではありませんが、現在でも有効となりうる、コミュニティまたはそれに変わる概念を再考する必要があると感じています。





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