B029 『ぼくはこんな本を読んできた―立花式読書論、読書術、書斎論』
立花 隆 (1995/12) 文藝春秋 |
立花隆の本を検索してみると、歩いて5分の公民館の図書館においてあったので少し古いが借りてみた。
読書術なんかも載っていて面白かった。
しかし、一番の興味は彼の好奇心の行く先である。
知への好奇心は百科事典男の比ではないが、この先自分に起るかもしれない変化を知りたい、という点では同じかもしれない。
(そして、僕もこの読書録を続けた先に何らかの方向を見出せるのではと少しは期待している)
しかし、スペシャリストの時代であればこそ、かえってゼネラリストの存在価値が出てくるのではないかと考えた。・・・それ以来、ゼネラリストたることを専門とする専門家にならんと心がけ、ついに今日のような生きざまにたどり着いたというわけだ。
彼の好奇心の範囲の広さは上の言葉に良く表れているが、ゼネラリストであることの恐怖はなかったのであろうか。
Amazonのカスタマーレビューに次のような面白い指摘があった。
ただ、好奇心という点で博覧強記の荒俣氏と比較すると、荒俣氏の仕事には世の中で知られていない、評価されていないものを原点から調べ上げるという私的好奇心の発露から、俗論をひっくり返す創造活動であるのに対して、立花氏の好奇心はすでに確立した学問、研究を勉強するという所に多きな違いがある。
その意において立花氏は学校を卒業しない永遠の優等生という感がある。
確かにそういう印象はうける。
僕ならそういう印象を与えることは恐怖だ。
しかし、その道を突き抜けることで恐怖をなくすことも可能だろう。
ゼネラリストの存在価値はおそらく全体を俯瞰した上で複数のスペシャリストをダイナミックにつなぎ合わせることにあると思うのだが、それは可能だろうか。
驚異的な知を手に入れた後、集大成として彼が彼にしか出来ないどんなことを成すのか、期待したい。
ところで、僕が目ざしているものはおそらくゼネラリストではない。
昔のことになるが、物心ついてから高校を卒業するまでに僕が自主的に読んだ本はほんの2,3冊しかないと思う。
なんとなく、外からの知識で自分を作ることに抵抗があって、「本なんか読まないで自分で考える」と意地をはっていたのだ。
ドラマなんかもクソ食らえと思っていた。(影響されるのが嫌だった。ひねくれたガキだ。)
外からの知識なしというのはありえないのだが、この時期そう意地をはっていたのは、まぁよかったんじゃないかと思っている。
その反動か、今じゃ知らないことが恐くて本ばかり読んでいる。
しかし、子供のころのような野性味も恋しくなってきた。
知らないことも恐いのだが、「優等生」といわれるのはもっと恐い。その恐さは僕の中でのある種のコンプレックスとなっている。
(子供のころの反発心はおそらくこのコンプレックスによるものだと思う)
読書録もとりあえず100冊を目標にして、その後はとことん考えてみたい。
そして、その考える中から、何かどろどろとした、確かな手触りのあるものをすくい上げたい。