ダイアローグによって建築をつくりたい B229『見たことのない普通のたてものを求めて』(宇野 友明)
宇野 友明 (著)
幻冬舎 (2019/11/26)
twitterで知り合った友人が、この本を読んだ感想として「何となくオノケンさんと話をしている、あるいは話を聞かせて貰ってるような、そんな感じだった。」と書かれていたのを見て興味を持った。
最初は、自分と同じようなものであればむしろ買って読むまでもないかな、と思ったのだけど、その友人は、と同時に何かしら反発心のようなものもあったそうなので、なおさら読まねばいけない気がした。
モノローグとダイアローグ
著者は、設計者として独立した後、設計と施工が分離した状態に疑問と限界を感じ、自ら施工も請け負う決断をしながら、何よりもつくるということそれ自体を大切をしている。
建築の精度も経験の深さも全く敵わないけれども、求めているものはやはり自分と近いものを感じた。
それを実践されていることに羨望の念を抱くことはあっても、大きな反発心を感じることはなかったように思う(反発心を感じられなかった自分には少し残念な気持ちもある)。
しかし、同時に自分と異なる部分も感じる。
どこに、その違いを感じるのだろうかと考えて気づいたのは、著者の文章は断定的な物言いが多いけれども、自分はどうしても「~と思う。」「~ではないだろうか。」といった曖昧な表現で終ることが多い、ということだ。
それは、自分の文章、というより自分の行動に対する覚悟の違いであることは間違いない。自分はそれほどの強さを持てていない。
だけども、それだけではないような気がする。
思えば、自分も学生時代、当時の関西の建築学生の例にもれず、安藤忠雄に傾倒している時期があった。その覚悟に満ちた凛とした姿勢の建築に大きな魅力を感じた。
しかし、大学を出てからは、それとは違う、もしくは対局にあるような建築の魅力というものもあるのではないか、という気持ちが芽生えつつ、安藤忠雄の建築のような魅力も捨てられないという迷いの中を彷徨うことになる。
それは、現在に至るまで続いており、このブログは、その迷いの先にあるものを探し続けてきた記録でもある。
今のところ、そのどちらでもあり、どちらでもないような、建築の在り方を求め続けるプロセスの中にその答えがるのではないか、と思い至っており、それが曖昧な表現につながっているように思う。
言い換えると、おそらくモノローグではなくダイアローグによって建築をつくりたいのだ。
著者は、自分の中の声に、職人の手の声に、素材の声に耳を澄ませ、偶然もしくは天の声に身を委ねており、決して独りでつくっているわけではない。しかし、その声を限定し削ぎ落としていくことによって強さを獲得している、という点でモノローグ的であると思う。
しかし、そうではなく、なるべく多くの声との対話を繰り返すことで建築に強さを与えるようなダイアローグ的なつくりかたもあるのでは、と思っている。
それは、著者や安藤忠雄の建築を否定しているのでは決してない。
そうではなく、彼らがそういう風にしかつくれないように、自分にもこうしかできない、というつくりかたがあるのだと思うし、今、さんざん迷いながらもたどり着いているものは、それが今の自分の姿なのだと思うのだ。(それを受け入れてよいのでは、もしくは受け入れるしかないのでは、と思えるようになったのは最近のことだけれども。)
プロと出会い、仕事の舞台を整える
さて、最初に書いた友人の抱いた反発心について、自分は同じようなものを直接的には感じることは出来なかったけれども、設計者の仕事の意義や役割について人一倍責任感の強い(と思う)氏のことなので、思うことは分かる気がする。
著者が信頼できる職人と出会い、その職人が良い仕事ができるように準備することをその職務としているように、設計者も信頼できる施工者と出会い、彼らが良い仕事ができることをその職務とすることはできると思うし、設計と施工を統合することに意義や可能性があるのと同様に、設計者であることに専念することの意義や可能性もまた存在すると思う。
いずれにせよ、良い建築をつくるためにやるべきは、自分の仕事に責任と誇りを持っているプロと出会い、彼らが良い仕事ができるような舞台を整えることである。
そして、そのどちらも困難で大変な大仕事には違いないと思う。