建築構成学は内在化と逸脱によってはじめて実践的価値を生む B214『建築構成学 建築デザインの方法』(坂本 一成 他)
坂本 一成,岩岡 竜夫,小川 次郎,中井 邦夫,塚本 由晴(著)
実教出版 (2012/3/1)
別のところで書いたけれども、読書記録には上げてなかったので再度簡単にまとめてみる。
内在化と逸脱
建築構成学は建築の部分と全体の関係性とその属性を体系的に捉え言語化する学問であるが、内在化と逸脱によってはじめて実践的価値を生むと思われる。
内在化は、たとえばある条件との応答によって形が決まったりするように、外にあるものを建築の中に取り込むことだと思うけれども、それだけでは他律的すぎるというか、建築としては少し弱い。
何かが内在化された構成・形式から、あえてどこかで逸脱することによって建築は深みを増すように思う。もちろん、逸脱のみ・無軌道なだけでは建築に深みを与えることは難しい。
何かを内在化し、そこに構成を見出し、そこから逸脱する。この逸脱が何かの内在化によってなされたとすると、さらに、そこに構成を見出し、そこから逸脱する。すると、そこには複数の何かを内在化したレイヤーが重なり、そこにずれも生じることになる。
この内在化・観察/分析・逸脱のサイクルを繰り返せば繰り返すほど、建築の深みが増す可能性が高まる。
読み取る人によって程度の差はあれど、この内在化の度合い、逸脱の度合い、サイクルの回転数は図面や実際の建築物にはっきりと現れ、感じ取られるもので、その建築の出来に大きく関わるものだと思う。
エスキス
ただ、実際にはこのサイクルを回すのは結構難しいと感じている。特に観察/分析の部分。
内在化・分析・逸脱のうち、内在化は普通に条件を整理して、それに対してアイデアを練っていけばある程度達成できると思うし、逸脱のために、例えば、レトリックを用いたり、予め逸脱のためのルールをインストールしておく、といった手法をとることもイメージしやすい。
だけど、逸脱の前の観察/分析の部分はかなり意識的に行わないと、なかなか発見的な分析というものはできないし、そのための時間を確保することも難しいように思う。単純につくること(内在化と逸脱)とは頭の使い方が違う気がするし、技術や知識、経験も問われるし、時間を省略しても一応の建物は建ってしまう。
この辺が課題なんだろうな。自分でエスキスチェックする能力が不足してるのだ。だけど、どうやったらいいんだろうか。
たぶん、他の人のものや、だいぶ前にやった仕事を観察/分析して意見を述べよ、と言われたらある程度はできる気がする。なので、自分の中で違う人格を用意するといいのかな。もしくは、複数の人でエスキスしあうか。
そう言えば、これまで、自分の仕事を先生や上司、その他他人に見てもらって構造化や批判をしてもらう、っていう経験が圧倒的に不足したままここまで来てる気がするなー。
メモ
このような建築の内在的な構造は、比喩的にいうならば樹木が重力や太陽との関係をその成長の原動力としていることと似ている。[…]したがって、樹木の構成にも重力や太陽を媒介した構造―そのために重力や太陽に対して常に実践的でありうるような―が内在化されているのである。これと同様、建築の構成における重力や動線を媒介にした構造は、それを無視してしまえば建築空間が成り立たなくなるがゆえに本質的であり、内在的なのである。(p016)
したがって、タイプの有効性が建築を分析することに限られてしまう。これに対して、ある構成形式の範囲で繰り返し用いられるものとして説明される建築のタイプは、逆にまだあまり試されていない構成形式の可能性を、形式的な想像力によって開くことができるので、分析のみならず創作的な思考にとっても有効である。また、タイプにおける要素の選択と配列の関係を定形として、要素を変え、配列を変えることで、慣用的な関係を強調、逸脱、あるいは違反し、その階層での構成形式を新たな文脈に位置づけ直すこともできる。これにより全体と部分の関係を不安定にしつつ、新たな均衡状態や緊張関係を見出すことによって、建築の意味作用を活性化することが、構成による修辞である。(p.019)