リズム=関係性を立ち上げ続けるために思考する B263 『未来のコミューン──家、家族、共存のかたち』(中谷礼仁)
中谷礼仁 (著)
インスクリプト; 四六版 (2019/1/25)
本書は、今和次郎、篠原一男、ミース、白井晟一、ロース、上野千鶴子、フーコー、エンゲルス、ハワード、ハスクレー、ゲデス、カント、アーレント、アレグザンダー、ガタリ、レイン、民家、蔵、寓話、小説、シェーカー/オナイダ/ヒッピーコミュニティ(コミューン)、ベテルの家など、多様な人物、事物を縦横無尽に巡りながら、家=器と人間、社会との関連を浮かび上がらせていく。
未来のコミューンへ
例えば、上野千鶴子を引いて、家を「特定の人間たちとそれを容れるハコとの相補的な幻想関係」と再定義し、そこに住む人間を「不変の確固たる存在ではなく、社会的関係の中で不断に規定、変転する事物的存在」として捉える。それは人間を、社会や器との関係の中で「改造可能なかたち」として捉えることでもある。
また、人間的発露の発生を「生物としての人間個々のかたちと私たちが築き上げてきた世界=社会的コンテクストとの摩擦」の中に見ながら、家を「人間的病を一旦保持しつつ、人間が自らに対して要求されたコンテクストを、徐々に変更してゆくことのできる待避所」として捉えようとする。
幻想関係の中、人間と家・器とがお互いに変容させ合いながら、両者が平衡状態へと至るような境界を探り、再び集合して新しく空間を確保すること。ここに未知の「家」、未来のコミューンを見る。
かなり単純化しているが、本書でのキーワードをつなぐとこういう感じになるだろうか。(ここまでは内容を思い出す際のメモ的なものです)
忘却とリズム
さて、建築家とはそもそも人間と社会の関係性の中に新しい空間の可能性を見出そうとする人のことだとすると、その関係性にどこまで迫れるかによって建築の深度のようなものが変わってくるだろう。
その背景に迫る著者の思考の深さには凄みを感じるが、一方でこのような凄みそのものが軽んじられるようになりつつあるようにも感じる。
単純に言えば、建築を考える際のベクトルには、建築によって人間を規定しようとするベクトルと、そのような規定を避けようとするようなベクトルの2つがあるだろう。
現代は私も含め、後者のベクトルの傾向が強いように思うが、そこには背後にあるコンテクストを単純化・省略化して徐々に忘却していってしまうという危険性がある。
著者は、原罪的現実(「つがい」「生産」「恥じらい」)とそれらを克服する希望(あるいは妄想)の二重性として、近代家族を「語るべきこと」が必要であるが、この宿題は、ハコと人間たちとの機能論的な関係を見るだけでは回答できないという。
しかし、先程のベクトルによって忘却が進んでしまっては、この宿題に対する回答には辿り着けないのではないだろうか。(忘却こそが回答である、ということはあり得るだろうか?)
千葉雅也のツイートをフォローしていると、この忘却に対して踏みとどまろうとする倫理観のようなものを感じることがある。この姿勢はモートンを読んで感じた”距離においてとどまりリズムを立ち上げる”ということに近い。
前に書いたように、本書は一貫して距離の問題を扱っているが、そこでみえてくるのはとどまることの大切さである。
自然という土台がない、という土台からはじめる必要がある。それは、とどまりながら、人間が身をおくところにおいて生じている独特のリズムとともに生きていることを敏感に感じ取り、反応していくということなのだろう。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 距離においてとどまりリズムを立ち上げる B255『自然なきエコロジー 来たるべき環境哲学に向けて』(ティモシー・モートン))
そして、このリズムは『間合い: 生態学的現象学の探究』で浮かび上がったように、人間と社会・世界の間に関係を築き維持するために必要なリズムである。
忘却が∞の距離の固定化だとすると、空間の中にリズム=社会・世界との関係性を立ち上げ続けるには、忘却に対して踏みとどまり、著者のように深く思考を続ける姿勢が必要であるし、おそらくその先に人間的発露が生じる可能性がある。
そういう意味では、本書は著者自信がリズム=関係性を立ち上げ続けるための、忘却に対する抵抗の記録であるとも言えるし、人はそれぞれ忘却してはならないものを抱えているのではないだろうか。
では、自分にとっての忘却してはならないものとはなんだろうか。(すでに忘れてしまっていたり・・・)
(環境や自然は建築を考える上でのコンテクストとしての存在を年々強めているが、このコンテクストと建築・人間との関係性が歴史的にどのように変遷してきたのか。その変遷の忘却に対する抵抗の書を、本書のような深度で誰か書いてくれないだろうか。)