B166 『WindowScape 窓のふるまい学』

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東京工業大学 塚本由晴研究室 (著, 編集)
フィルムアート社 (2010/10/29)

塚本さんの”ふるまい”という言葉について興味があったところ図書館で目にしたので借りてきた本。

冒頭の文章が良かったので一部引用。

なぜふるまいなのか
20世紀という大量生産の時代は、製品の歩留まりをへらすために、設計条件を標準化し、製品の目標にとって邪魔なものは徹底して排除する論理をもっていた。しかし製品にとっては邪魔なものの中にも、人間が世界を感じ取るためには不可欠なものが多く含まれている。特に建築の部位の中でも最も工業製品かが進んだ窓のまわりには、もっとも多様なふるまいをもった要素が集中する。窓は本来、壁などに寄るエンクロージャー(囲い)に部分的な開きをつくり、内と外の交通を図るディスクロージャーとしての働きがある。しかし、生産の論理の中で窓がひとつの部品として認識されると、窓はそれ自体の輪郭の中に再び閉じ込められてしまうことになる。
(中略)
窓を様々な要素のふるまいの生態系の中心に据えることによって、モノとして閉じようとする生産の論理から、隣り合うことに価値を見出す経験の論理へと空間の論理をシフトさせ、近代建築の原理の中では低く見積もられてきた窓の価値を再発見できるのではないだろうか。

「人間が世界を感じ取るためには不可欠なものが多く含まれている」「窓はそれ自体の輪郭の中に再び閉じ込められてしまう」「隣り合うことに価値を見出す経験の論理」

ちょうど、昨日の飲み会で主にコストとの折り合いの関係から、「名作と呼ばれる建築の仕上げなどがクロスやアルミサッシなどの工業製品に置き換えられたら、その空間の質は残るか」みたいな話が出たけれども、それほど影響が出ないタイプの建物と決定的に影響が出る建物があるのだろうと思います。

では、工業製品と付き合って行かざるをえない中でどうすれば「世界を感じ取るためには不可欠なもの」をとりもどせるか。

いわゆるモダニズムの正攻法かも知れないけれど、一つは空間の質を素材の持つ力に頼らず、例えば構成などで担保するような方向があると思う。
工業製品が「それ自体の輪郭の中に閉じこめられてしまった物」だとすると、それを前提として受け入れてしまい、枯山水じゃないけれども抽象の力を借りて「人間が世界を感じ取るためには不可欠なもの」を引き寄せるような方向。(抽象もコストがかかりがちだけど)

もうひとつはそれ自体の輪郭の中に閉じこめられてしまった物を再び開こうとする方向があるのかも知れません。一つ目の方向との違いは分かりにくいかも知れないけれど、抽象よりももっと具体的・身体的な部分でリアルに迫るようなイメージ。
それをどうやって開くかというのはまだよく分からないけれど、例えば
・構成を身体的なところまで細分化?していって、閉じたモノを絡み合った関係性の束の中に落としこむことで完結させないようにする。
・もっと具体的にものの使い方や意味をずらしてしまうことによって閉じた輪郭を関係性の中に浮かび上がらせる。
というようなことがようなことがイメージされます。
あと、工業化の過程でブラックボックス化した技術をどう可視化して手元に引き寄せるか、というのも一つのテーマになるのかな。

この辺は実践を通して手応えを掴んでいくしかないなぁと最近良く感じます。





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