ポストモダンと笑いと建築に関するメモ

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某氏のtwitterで

ポストモダンをどう捉えるか。渦中にいる頃は判らなかったけど、今から振り返れば、あの時代の建築や建築家って、すごく「物語」を信じてた。物語は終わったとか、すべてを参照・操作のネタにするとか言ってたけど、すごく元ネタへの思い入れや理解が、深いというか湿っぽい。

だからポストモダンにおけるマニエラは、「動物化」とは違う気がする。逆説的に、建築における「物語」が生きていた最後の時代って言えるんじゃないかな。本当に乾いた、すべてを記号としてフラットに操作対象とするような、「動物化」した設計態度は、ユニット派以降のものな気がする。

という発言を読んだ後の帰りのバイクでなんとなく考えたことをメモ。

僕のイメージするところのポストモダンと建築様式としてのポストモダンはあんまり一致しない、というか全く別物のように思っていたので、これを読んでかなり納得。

といっても、僕が哲学におけるポストモダンを正確に把握しているかと言うとそうでもなくて、”僕のイメージするところのポストモダン”というのはだいぶ昔に読んだ『意味に餓える社会』(ノルベルト ボルツ 1998/12)によるところが大きくて、ニュアンス程度でドゥルーズをイメージしている程度。

この、『意味に餓える社会』は途中ツッコミをいれまくるだけなので、最初と最後を読めばあらかた内容は分かります。

そんな事を考えてたら、ツッコミといえばお笑いってのはかなり(僕のイメージするところの)ポストモダンだよなと思いました。
意味なんて言ってたら笑ってられないし、そういう意味を剥奪していくことがむしろ笑いの前提となる。そして一般的な前提をひっくり返して勝手にでっち上げることも日常茶飯事。「全てが別様でありうる世界」、それがお笑いなのです。(と偉そうに書いてますがお笑い論はよく知りません)

実は「動物化」というのも動物化するポストモダンの文脈から離れて使われる時に、どういう意味で使われるのか良く分かっていない。
僕の期待する”ポストモダン”の先の可能性は、この「動物化」に感じるあきらめに似た何かとはたぶん別のものです。

先の話に戻って、お笑いもただ前提や意味を消して「動物的」になれば笑いが起こるかといえばそうではないと思います。
前提や意味を一旦消した上で、なおかつ一定の”強度”を獲得できた場合だけが笑いを取れるのだと思うのです。

先のM-1で優勝したパンクブーブーと笑い飯を取り上げてネット上でもいろいろ議論がありましたが(僕は笑い飯が好きだけどパンクブーブーの優勝は納得派)、両者とも相当な”強度”を生み出せることは間違いありませんし、笑い飯の持つ”強度”は相当なものだと思います。

再度建築に戻ってこれに重ねて考えてみると、ただ「動物化」しただけではおそらく建築には成り得ない。
そのうえで、尚且つ”強度”を獲得できた場合のみが建築と成り得るのだと思うのです。

なるほど建築とは笑いをとることか。

そういう意味では”かわいい建築”、”弱い建築”、”負ける建築”も強度を獲得する(笑いをとる)ための手段でしかないと僕は思う。(なので概念としては弱くても、というか弱ければ弱いほど強くなるはず。アンガールズとかか?)

僕の今のポジションとしては、笑い飯に憧れつつも、そこに行き着くには一皮も二皮も脱がなきゃ行けない、お笑い志願者、と言ったところでしょうか。いずれパンクブーブーになることは想像できても、笑い飯になれるかは未知。どうにか一枚ずつ脱いでいくしかないな。

---多少焼酎が入っている中勢いで書いたので後で修正するかも。---





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