「普通さ」だとか「凡庸さ」だとかいった言葉はかえって邪魔になる B241『建築家・永田昌民の軌跡 居心地のよさを追い求めて』(益子義弘他)
益子義弘他
新建新聞社/新建ハウジング (2020/6/2)
永田昌民のこれまでの代表作をとりあげ、クライアントや益子義弘、堀部安嗣、趙海光、倉方俊輔、三澤文子、横内敏人、田瀬理夫といったメンバーがコメントをよせながら永田昌民の建築の本質を浮かび上がらせる。
物が織りなされた場
その点で言えば彼の設計上の主眼はものの構成の側になく、物が織りなされて「一つの空気に昇華する場や空気の状態」を求めていたのだと思う。軸組や骨格を顕にする真壁構造でなく、あえてそれらを隠す大壁の構成に徹した空間造りの志向はその表れであろうし、そうした物の構成の側に枠取られるような建築的なテーマ性を彼は好まなかった。(p.3)
ある意味では、前回私が書いた「くるむこと自体を構築の意志とみなせるような「かたち」の現れを、ローコストで実現する。」というようなことと反対のものを求めていたようにも受け取れる。
しかし、氏の建築には明らかに構築の意志があるように思われるし、「物が織りなされ」た状態に昇華させようとすることは、私の目指したいと思うところと重なる部分も多い。
この辺りが建築の難しいところであり、面白いところだと思うのだけれども、言葉尻では相反するようなことでも、目指すところは案外同じようなものだということは多い。
最終的に、その建築がどのようなあり方をしているか、というところが重要だとすると、学ぶことはたくさんある。
まちに溶け込むちょうどよい塩梅
また、氏の建築には押し付けがましさや、過剰な凡庸さのようなものはほとんど感じなかったが、それはなぜだろうか。
外観の素朴さや、絶妙な配置、内部の納まりの自然なあり方、など、その理由はいくつも考えられるけれども、一番の理由は形態や仕様だけでなく、凡庸さという点においても、氏が過剰であることを嫌ってそこから抜け出すまで徹底的に検討したからではないかというような気がする。
前回書いた、「あからさまに他と異なる必要はないが、今、ここに確かに存在しているというあり方を獲得できているかどうか。それをどう実現するか。」というようなことを実現しつつ、過剰さを注意深く避けることで、まちに溶け込むちょうどよい塩梅となっているように思う。
それを目指すためには、「普通さ」だとか「凡庸さ」だとかいった言葉はかえって邪魔になるような気がしたし、もしかして、そういうことに縛られないように、自らの建築をあまり語らなかったのかもしれない。
おそらく、建築は区別を前提とした「普通さ」や「凡庸さ」と言った言葉の側ではなく、その物、その場所そのものの存在のあり方の側にある。