新しいイメージを思い描くことが建築をほんの少しだけ自由にするかもしれない B253『大栗先生の超弦理論入門』(大栗 博司)
大栗 博司 (著)
講談社 (2013/8/21)
『点・線・面(隈 研吾)』で量子力学や超弦理論が引き合いに出されていたので、おおまかなイメージだけでも掴めたらと思い読んでみた。
(図書館で関連図書を探して借りたけれども、10年ほど前の著書なので、理論としてはもっと進んでるかもしれない。)
理論物理学と数学のダイナミックな関係
本書の表紙は、書名がブルーバックス創刊50年にして初めての「縦書き」になっています。原稿の完成後、「超弦理論のような物理学の最先端でも、日本語の力で、ここまで深く解説できるということを象徴したい」という編集部の意向でこうなりました。(p.276)
読み始めるまでは、理解力や前提知識の問題で、まったく意味が分からないまま読み終わることも想定していた。
だけど、具体的な中身はさっぱり理解できないとしても、どういうふうに理論が生まれ改善されてきたか、という流れがダイナミックに描かれていて、読み物としてとてもおもしろく読めたし、伝えたいという著者の意気込みを強く感じた。
いくつもの先行理論、実験結果などから、理論的な弱点が見つかると、やがて、それを補う仮説が考え出され、それにともなって様々な可能性が発見される。
そういうことの積み重ねで新しい領域と可能性が開かれていくと同時に、それまでバラバラだった理論が一つの理論につながっていく流れはとてもエキサイティングである。そして、それを強力に押し進めるのは数学の力のようである。
いったい、この人たちの想像力はいったいどうなってるんだろう、と思えるような世界が数学的に記述される。そのことには驚かされるし、哲学と同様、私たちが普段見ている世界が、どれだけ認識のフレームに規定されているか、ということを強く感じさせられる。
空間は幻想である?
ある次元が、異なる次元に変化する現象があったり、ある次元で起きていることが、見方によって異なる次元で起きているように見えたりするのでは、空間という概念がはたして本質的なものなのかどうか、疑わしくなってきます。温度が分子の運動から現れるものにすぎないように、空間というものも何かより根源的なものから現れる二次的な概念、つまりは幻想に過ぎないのではないか。超弦理論はそういっているのです。(p.7)
超弦理論は様々な物理理論(重力や量子力学)を統一的に結びつける、現在唯一の理論であるが、検証によって自然法則として確立しているわけではないそうだ。その超弦理論によると、空間というものは幻想にすぎないようだ。
統一化が進んだ理論では、例えば、重力を含む9次元空間の超弦理論と、重力を含まない3次元空間の場の量子論とが、同じ計算結果を導き出すそうだし、9次元が10次元になったり、32次元が矛盾を解決する鍵になったり、ある次元が小さな次元にコンパクト化されたりする。
どうやら、次元というものはより根源的な「何か」の現れ方にすぎないらしい。3次元空間という絶対的なものがある、というよりは、根源的な「何か」が3次元的に現れているものを私たちが認識している、もしくは私たちは3次元的にしか認識することができない、ということなのだろうか。
アインシュタインの相対性理論も理解できていないけれども、高校物理の範囲の知識でなんとなくイメージしたのは、
ある移動している点があるとする。その点の位置を時間で微分すると速度というものが現れる。さらに微分するとそこに加速度、つまり力が現れる。
逆に移動する点は積分すると線になり、さらに積分すると、面、立体、、、となる。
立体、面、線、点、位置、速度、加速度・力などは、同じ世界の現れ方の違いにすぎず、同じものでも、速度までの現れしかない次元に住んでいる住民は、私たちとは全く違う世界を認識しているだろうし、同様に、5次元の現れの世界の住人も全く違う世界を認識するに違いない。
みたいなイメージだ。(そういえば、昔『2次元より平らな世界 ヴィッキー・ライン嬢の幾何学世界遍歴』というのを読んだのを思い出した。)
「時間も幻想か」「なぜ時間に向きがあるのか」という話もでてきたけれども、もしかしたら、時間も次元の一つとして考えた時、切り取り方によっては、時間の向きは何か力や場のようなものとして現れるのかもしれない。と思ったりもした。
建築の見方がどう変わるか
分かったような分からないような読後感だけども、とりあえずは上出来なのかもしれない。というかほとんど理解できないだろうと思っていたので期待以上だった。
さて、ではそれによって建築の見方がどう変わるか、というのが一番の関心事である。
今見ている世界が、ある面で切り取られた一つの現われにすぎないとするならば、もとの「根源的な何か」はもっと多様で豊かなものを含んでいるに違いない。
時間軸も含めたその多様さ・豊かさを、何らかの形で少しでも感じられるように建築に表現できたとするならば、ニュートン的な絶対空間・絶対時間の認識から生まれるものとは異なるイメージを描けるようになるかもしれない。
そう考えると、隈研吾が点・線・面という言葉から考えようとしていることが少し理解できそうな気がするし、ヴォリュームであっても、絶対空間・絶対時間的なものから生まれるものとは少し違って見える。
例えば、よく整理された幾何学的なヴォリュームあったとする。それは、3次元的に見ると、単に整理されたものにすぎないが、もっと複雑な3次元を超えた根本的な何かから、3次元で微分的に切り出された現れとしてのヴォリュームだと考えると、それはもっと何か奇跡的な秩序のように思えてくる。(それが、力強い幾何学的な建築に感じる魅力の源泉だ、というのはありえない話だろうか。)
その秘密はやはり、その点が、線でもあり面でもありうる、という可能性の中に生きていることの方にあるのではないか。
その背後にある重層的な世界の危うさ・不安定さが豊かさの源泉としてあるのではないだろうか。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 重層的な世界観が描く豊かさ B250 『点・線・面』(隈 研吾))
とはいえ、こんなことを考えることに実際なんの意味があるのか。単に理屈をこねくり回しているだけで、現実にはろくな影響はないんじゃないか。
そういう疑問が浮かぶかもしれない。
もしかしたらそのとおりかもしれない。
だけど、新しいイメージを思い描くことが建築をほんの少しだけ自由にする、ということを信じて積み重ねた先に、自由な建築のようなものがひょこっと顔を出すことを私は期待したいのである。(そして、なかなか顔を出してはくれないんだけども・・・)