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書評/社会・政治
「本が好き!」より。
若者の不安定な労働環境を伝えながら『生きさせろ!』というのが如何にリアルで深刻な問題であるかを訴える。
日本が目指してきた社会の歪がすでに『生きさせろ!』という生存権を主張しなくてはならないところにまで来ている。
著者と同じ歳で、東京と鹿児島で派遣のバイトもしていた僕としてはかなりリアルに感じられる内容である。知っている人は知っているが、一歩間違っていれば僕だって負の連鎖に巻き込まれて這い上がれなくなるかもしれないという割とギリギリの位置にいたのだ。
だから、本著で紹介されている気付けば全く身動きの取れないところに落ちてしまっていた、というような事例は、その過程がかなりリアルに想像できてしまう。
いくら働いても生存ギリギリの収入しか得られず、風邪などのちょっとしたきっかけでホームレスに転落してしまうようなフリーター、過労死をいつするかわからない程働かされても何も言えないような正社員。
彼らは根性がないわけでも、怠けているわけでもない。
ただ、たまたま社会や企業の都合の良いところにはめられてしまっただけなのだが、それらが『甘い』とか『自己責任』といった言葉でかたずけられてしまうのがこの問題の一番厄介なところである。(本当に『甘く』なれないからこそ、過酷な条件に耐えてでも働いてしまう。『自己責任』という言葉はフリーター批判者の自己肯定の道具にもなるし、フリーター自信が問題を内面化し、自らをさらに追い込んでしまう原因ともなる。)
具体的なことは本著や類似書をあたって欲しいが、これらの問題は個人的な問題ではなく社会の構造の問題だということをはっきりしなくてはならない。
”派遣”という労働形態が”解禁”になったのはつい最近のことであるし、95年の日経連では労働者を①正社員②契約社員③フリーターに分類してそれらをうまく使いなさいというようなことを提言している。また、最近のホワイトカラーエグゼプションの議論は記憶に新しい。
ようはグローバル化した社会を勝ち抜くために、若い労働力を安く使い捨てにするというのは国をあげての政策であり、3割とも4割とも言われている非正規で使い捨てにされる労働者には、根性があろうがなかろうが、あなたの変わりに誰かがなってしまうということである。
『戦後最大の利益』なんてのは単に若者を使い捨てにした結果であって、”利益”を喜んだり、グローバル経済の恩恵を受けながらフリーターを批判するのは矛盾以外の何ものでもない。
それでは、僕らに何が出来るのだろうか。
月並みではあるがやはり、現状を知ることからはじめるしかないのではないだろうか。
前回読んだ本で宮台真司が日本人は”ゲーム盤”(自分が所属する社会のたとえば環境やルールなど)を意識するのが苦手、と指摘していたが”ゲーム盤”が今どのようなものであるかを知り、ゲームのルールを自分たちで変えていくんだ、という意識を持つことが大切である。
本著で”プレカリアート(不安定を強いられた人々)”という言葉が紹介されている。生きていくのに絶えず不安に曝され続けなくてはならないゲーム盤がすばらしいとはとても思えない。
皆がおかしいと思い少しずつでも声を上げれば少しずつでも変わっていくだろうし、現に民主党などはそういう雰囲気を感じ取って(小泉政権からの)ネオリベ的な自民党に対抗するような軸を設定し始めたようにも見える。
もう一度いう。これらの問題は『自己責任』といった個人レベルの問題ではなく、グローバリズムを背景とした社会の構造的な問題である。
『自己責任』という安易な言葉に逃げずに自分が、もしくは自分の子供が同じ状況に追い込まれたらという想像力のもと、一度彼らの現状に向き合ってみて欲しい。そして、自分たちの問題としてどのようなゲーム盤であって欲しいのか考えてみて欲しい。
また、本著は子供を持つ親や、今まさにフリーターであるという方たちにも読んで頂きたい。いざと言う時に自分を守ってくれる法律や方法、そして「もやい」や「フリーター全般労働組合」といった一緒に行動してくれるところも紹介されていて、それらを知っているだけでも不安は軽減されるだろうから。
新自由主義(ネオリベラリズム)とか現代の自由主義(ニューリベラリズム)とかややこしいですね。
wikipediaより
□新自由主義(ネオリベラリズム)
□現代の自由主義(ニューリベラリズム)
(□コーポラティズム)
よって、リベラリズムは自己決定を推奨し、国家による富の再配分または地域社会による相互扶助を肯定する。すなわち、市場原理主義では大企業が利益を最大化する一連の行為のために、失業問題や構造的貧困や環境問題など様々な弊害・社会問題が生じ、それは古典的自由主義の意図に反して人々の社会的自由をかえって阻害しているとし、古典的自由主義を修正する思想である。
というようにネオリベを修正した現代の自由主義というのもあるようですね。(ますます混乱。)
ちなみに、宮台氏は『ネオリベ的な市場万能主義は誤りで、市場を(透明な)コーポラティズム(協調的談合主義)的に制約すべき』としています。
こういうのが一般教養としてもっと広まって、例えば『前回はネオリベ的小泉に期待したけど、どうもうまくないみたいだからどこかもっとコーポラティズムよりの政策を打ち出すところがあればそこに入れよう!』とかいう会話が普通に聞かれるようになってもいいのかもしれない。(それが民度が高いってことか。)
6/28追伸
おたこはんさんが言われるように身近な範囲でコミュニケーションの機会をつくって他の世界へのリンクの可能性を担保するのは必要かもしれない。
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View Comments
TITLE: よくぞ
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よくぞ書いてくれました。
喝采。
TITLE:
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>meddo氏
どうも。どうも。
だけど、この国は若者が試行錯誤するにはコストもリスクも高すぎ。試行錯誤に失敗すると『自由に生きた罰』を受けるそうです。
それこそ小学校に上がる前からレールから外れはしないか、罰を受けないかと怯え続けないといけないなんて、やっぱり窮屈過ぎ。
著者はこの辺を指摘したかったのだと思う。
『自由に生きた罰』があるなら『レールに乗った罰』もまたあるのかもしれません。
『罰』というのはなんとなくつまらないので罰と言う単語を何かに置き換えられないだろうか。
罰 => 証
罰 => 余韻
罰 => ?
TITLE: むむう
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文脈からすれば「代償」かな。
なんかしらの数値に置き換えるときはコストで、
予測段階ではリスク。
過去形では痛み?
「制裁」とか「おとがめ」のような類義語を外すとなんだろね。
皮肉色を強めるなら「ばち」かな。あ、漢字いっしょか。
『自由』と『レール』の間には、“レール”からそれた分の絶対値があって、
社会のルールが変わってしまったときに、自由の側に移ったレールから、本来レールがあると思われていた側までの絶対値もあるとすると、
いったいどちらの絶対値が大きいんだろう。
その差分を取り戻すための労力や可能性。
気持ち的には後者と言いたいところだけど、前者なのかもしれないとふと。
努力がしやすくなった現在(方法やツールが降りてきて、情報を扱うための情報が増えた)では、前者が環境的に有利そうじゃない?
言葉の置き換えに話を戻すと、うーん、分かんない!
TITLE:
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>絶対値
そのときになってみないと分かんないね。
今レールが変わりつつある中で苦労されている中高年はいっぱいいあるだろうからね。
環境的には前者。その時点での能力的には後者が有利と言った感じかな。
前者にどっぷりはきついけど、後者を視野に入れつつの前者が適応しやすいのかもね。
表層的にはツールによって追いつけるように見えても、後者がストックしてきたものはそんなに簡単に手に入れられないよ。と気持ち的には思いたいところです。
TITLE: 自分で書いといてなんだけど
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自分で書いてることに混乱しそう(失笑
しかし、結論としてはまったく同感。
PING:
TITLE: ワーキング・プアの話 その?
BLOG NAME: さつませんだい徒然草
以前にコメントいただいていて、それから気になっていたブログ「オノケンノート」さんからトラックバックいただきました。ありがとうございます。 まずはこのリンク先のエントリーを読んでから、でお願いしますね。 コメント欄をじっくり読みながら(特に「自由」....